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絹の道資料館を訪ねて

2021年9月19日

八王子のシルクロード、絹の道を散策した後、絹の道資料館で学んだ日本の絹の歴史について簡潔にわかりやすく説明していきます。(^^)/


八王子・絹の道とは

安政6年(1859年)の横浜開港から明治初期の鉄道開通までの間、八王子や長野、山梨、群馬で生産された輸出用の生糸や絹織物を横浜港へと運ぶための道でした。なので当時は、浜街道(はまかいどう)と呼ばれていました。絹の道という呼び名は、後年、昭和20年代になってから歴史学者がつけた名称ということです。

絹の道の記念碑

横浜線の片倉駅から2キロ余り歩くと、絹の道の記念碑が見えてきました。いよいよ、八王子のシルクロード、絹の道を散策します♪ 絹の道の全歩行距離は、わずか1.2キロだそうです。いざ出発!

絹の道の心霊スポット

ちなみに、絹の道碑のすぐ横には、絹の取引で大儲けした、鑓水商人(やりみずしょうにん)たちによって作られた道了堂跡(どうりょうどうあと)という、お寺の跡地へと続く階段があるのですが、現在は登っても何にもないそうです。今回は登りませんでしたけど。

こうして見ると、なんとなくミステリアスな雰囲気が漂います。。霊気というのかな。。心霊スポットで有名な理由が何となくわかります。真っ昼間でも不気味。。夜一人では絶対に歩きたくないですね。友達と一緒でも無理です。 (;'∀')

八王子の散策ハイキングサークルの皆さん

今回は、おもに八王子で活動している、とあるハイキングサークルさんのイベントとして散策しました。絹の道は、舗装もされていない、ちょっとデコボコした狭い砂利道でしたね。こんな道を絹を積んだ荷台車を引きながら、行き来したのかと思うと、昔の人の苦労を感じます。

絹の道の心霊スポット

途中、ボロボロの小屋があり、ボロボロの看板には、Sna と読めるような文字があり、参加者の誰かが「昔のスナックじゃないのか?」と言ってましたが、まさかね。。こんな所に、こんなスナックあるわけないでしょう!? もしかして、これが本物の心霊スポットかな (;'∀')

舗装された絹の道

途中から舗装された道になりました。相変わらずの小道ですが。

絹の道の説明とルート地図

絹の道の出口に差し掛かった所に、絹の道についての説明とルート地図の掲示板がありました。。あれ! ふつう、入り口にありますよね? ひょっとして、こっちが入り口? まあ、道は往来するものだから、どっちが入り口ということもないですけどね。

皆さんと楽しく話しながら歩いていたら、はい、もうおしまい! 下り道だったから、なおさら早く感じましたね。わずか1.2キロの八王子シルクロードでした。


絹の道資料館を訪ねて

絹の道資料館の入り口

ほどなくすると、絹の道資料館の入り口が見えてきました。入館料はなし、無料でした。絹の道資料館の住所は、東京都八王子市鑓水989−2 です。

社会人向け散策ハイキングサークルの幹事さん

今回の社会人向け散策ハイキングサークルの幹事さんです。お疲れ様でした、大変お世話になりました。m(__)m

絹織物を作る機織機(はたおりき)

おお! いきなり機織機(はたおりき)、鶴の恩返しを思い出します。。注意されたわけではありませんが、館内での写真撮影は、これだけにしました。

鑓水商人と道了堂(やりみずしょうにん)と(どうりょうどう)

鑓水商人とは、この鑓水という地域で、絹の取引で財を成した、今で言う仲買人たちでした。この豪商たちは、村役人も兼ねたりして大地主にもなったそうです。絹の道の入り口にあった道了堂は、浅草にあった、妙覚道了(みょうかくどうりょう)という大変偉いお坊さんの祀ったものを誘致して建てたお寺だそうです。まさに「金に物を言わせる」行為だったんですね。

日本の絹の歴史

そもそも江戸時代の初期までは、日本国内では絹の生糸も絹織物も作られていませんでした。全て中国から輸入されていたそうです。

それが江戸時代の後期になると、幕府が輸入規制を始めて、絹の国内生産を農家に副業として奨励するようになりました。理由は書いてありませんでしたが、恐らく、輸入代金としての地金が不足してきたんだと思います。

日本各地で蚕(かいこ)の育て方の研究が進み、蚕当計(さんとうけい)という蚕の飼育のための専用の温度計も開発されました。養蚕書も数多く出版され始めました。

生糸作りは、今でこそ製造機で大量生産されていますが、その頃は、女性が指先を上手く使って巻き取っていくという手作業でしたので、太さにもバラツキがあり、比較的低品質な品物だったそうです。

織子(おりこ)は機を織る女性のことですが、品質の良い生糸や絹織物が作れますように! という願いを込めて、機守様(はたがみさま)が奉られていた機守神社(はたがみじんじゃ)へ頻繁に、お参りに行ったそうです。生活がかかっていたから必死だったんでしょうね。。(´;ω;`)

桑都縞市(そうとしまいち)

八王子では、江戸時代の中期から桑都(くわのみやこ)として知られるようになり、養蚕(ようさん)、生糸作り、絹織物の全工程が盛んに行われるようになりました。

中でも、縞柄(しまがら)の絹織物が、江戸の裕福な町人やお金持ちの商人たちに大人気だったようで、縞市(しまいち)という織物市が定期的に、横山宿や八日宿で開かれていました。今の、横山町や八日町あたりだったんですかね。

絹製造の近代化

明治初期になると、東京と横浜の間の鉄道網がしだいに整備されていきました。鉄道という名の新しい「絹の道」ができたのです。

明治政府の富国政策により、鉄道網の普及と同時に、群馬県には国営富岡製糸工場ができたり、八王子にも製糸工場ができました。

工場で作られた絹生糸は、それまでの手作り製法である座繰り製糸(ざぐりせいし)と違い、機械製造による高品質なものになり、しかも大量生産ができるようになりました。

鉄道網による飛躍的な物流の発達と相まって、高品質な絹の輸出は、日本の外貨獲得の大黒柱になっていきました。

さらに、鑓水商人たちに安い値段で買い叩かれてきた生産者、おもに農民や小作人たちも、座繰り製糸組合を作り、独自の出荷をするようになり、鑓水商人たちは、わずか50年足らずで没落していきました。

もともと重税で生活が苦しかった農民や小作人たちが、少しでもお金を稼ごうとして、蚕を飼って絹生産をしていたわけなんですよね。それを安く買い叩いていた鑓水商人って非情な人達だったんですねえ。。

鑓水商人も、あり余る財力を神社仏閣なんかに注ぎ込まずに、なぜ農民や小作民に分け与えてあげなかったのか。。没落していったのも自業自得というものでしょうね。

今も昔も、お金持ちは、貧乏人のことなんか考えちゃいませんね。貧乏人たちのお陰でお金持ちになったのにね。。

御殿橋(ごてんばし)

絹の道資料館を後にして、数分歩くと、大栗川(おおぐりがわ)に架かる橋、御殿橋(ごてんばし)に辿り着きました。

大栗川(おおぐりがわ)

絹の道の後は、この大栗川を使って、横浜港に向けて生糸や絹織物を運んだそうです。小さい川でしたね。小舟で運搬したんでしょうね。絹は軽いから何とかなったんでしょうね。

私の感想とまとめ

日本の絹の歴史は、まさに、日本の近代化と外貨稼ぎの大黒柱の歴史でもあったわけですね。

絹の原料となる蚕が、お蚕様(おかいこさま)と、様付けされるのも、もっともなことだと思いました。

絹織物の生産が盛んだった昔の八王子の方が、今の八王子よりも裕福な街だったのかもしれませんね。。今でもわずかにいらっしゃる八王子芸者衆も、その名残じゃないかと思います。

八王子みたいに早くから成熟した街だと、なかなか再開発が進まないんでしょうね。。だから今時だと、立川の方が駅前、駅周辺の再開発がどんどん進んでいますよね。どんどん綺麗で立派な街並みになっていって。。正直、ちょっと羨ましいです。

おしまい(^^


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